聖書ギリシア語の夕べ

日本聖書神学校の聖書ギリシア語通信講座でコイネー・ギリシア語を勉強しています

2)国会図書館のギリシア語の標語 “Η  ΑΛΗΘΕΙΑ  ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ” (ヨハネの福音書8章32節)の意味 18

 

 東京都千代田区永田町、国立国会図書館、本館2階の図書貸出しカウンターにはこんなギリシア語の句が掲げられている。

 

 “Η  ΑΛΗΘΕΙΑ  ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ”

 

 これを小文字にし、記号をつけるとこうなる。

 “ ἡ  ἀλήθεια ἐλευθερώσει  ὑμᾶς.

   ヘー   アレーセィア    エレウセローセイ     ヒュマース 。

 

  日本語訳:真理はあなたたちを自由にする。

  ἀλήθεια(真理) ἐλευθερώσει(自由にする) ὑμᾶς(あなたがたを)

   アレーセィア       エレウセローセイ           ヒュマース

 

 これはヨハネ福音書 8章32節にある句だ。

 イエスを信じたユダヤ人に向かって、イエスは「私に従いなさい。そうすればあなた方は真理を知る。そして真理は人を自由にする」と言う。

 

 

 聖書よりこの箇所を引用してみよう。

 

31.  Ἔλεγεν  οὖν  ὁ  Ἰησοῦς  πρὸς  τοὺς  πεπιστευκότας  αὐτῷ  Ἰουδαίους . 

        エレゲン    ウーン   ホ    イエースース   プロス    トゥース    ペピステウコタス           アウトー      ユダイウス 。

 

        ἐὰν  ὑμεῖς  μείνητε  ἐν  τῳ  λόγῳ  τῷ  ἐμῷ ,   ἀληθῶς  μαθητααί  μού  ἐστε , 

    エアン  ヒュメイース   メイネーテ     エン   トー     ロゴー   トー エモー  、 アレーソース     マセータアアイ  ム-  エステ 、  

 

32.  καί γνώσεσθε  τὴν ἀλήθειαν,  καί  ἡ  ἀλήθεια  ἐλευθερώσει  ὑμᾶς. 

   カイ グノ-セスセ    テーン  アレーセイアン  、 カイ   ヘー アレーセイア   エレウセローセイ          ヒュマース 。

 

33.  ἀπεκρίθησαν  πρὸς  αὐτόν . 

   アペクリセーサン         プロス       アウトン 。

 

       Σπέρμα  Ἀβραάμ  ἐσμεν  καὶ  οὐδενί  δεδουλεύκαμεν  πώποτε . 

    スペルマ       アブラアム  ズメン     カイ      ウデニ       デドゥレウカメン        ポーポテ 。

 

        πῶς  σὺ  λέγεις  ὄτι Ἐλεύθροι  γενήσεσθε ;   

   ポース   シュ    レゲイス   オティ  エレウセロイ         ゲネーセスセ ?

 

34.  Απεκρίθη  αὐτοῖς  ὁ  Ἰησοῦς . 

    アペクリセー      アウトイー    ホ    イエースース  。

 

       ᾽Αμὴν  ἀμὴν  λέγω  ὑμῖν  ὅτι  πᾶς  ὁ  ποιῶν  τὴν  ἁμαρτίαν

   アメーン     アメーン   レゴー  ヒュミーン  ホティ   パース  ホ   ポイオーン  テーン   ハマルティアン

 

      δοῦλός  ἐστιν  τῆς  ἁμαρτίας . 

  ドゥ~ロス   エスティン   テース   ハマルティアス 。

 

35.  ὁ  δὲ  δοῦλος  οὐ  μένει  ἐν  τῇ  οίκίᾳ  είς  τὸν  αἰωνα . 

   ホ    デ   ドゥーロス   ウー    メネイ    エン   テー   オイキアー  エイス   トン    アイオーナ 。

 

      ὁ υἱὸς  μένει  εἰς  τὸν  αἰῶνα . 

   ホ  ヒュイオス  メネイ    エイス    トン    アイオーナ 。

 

36.  ἐὰν  οὖν  ὁ  υἱὸς  ὑμᾶς  ἐλευθερώσῃ , 

   エアン    ウーン  ホ  ヒュイオス  ヒュマース   エレウセローセー 、

 

      ὄντως  ἐλεύθεροι  ἔσεσθε .

  オントース     エレウセロイ        エセスセ 。

 

 

31.そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 

32.そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

 

33.彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

 

34.イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者は皆、罪の奴隷です。

 

35.奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。

 

36.ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

 

ヨハネによる福音書 8章31節~36節)新改訳2003年版

 

 

<日本語訳で気になったところ>

 

1)“ 私のことば ”  “ 私とことば ” どちら?(31節より)

 

 μείνητε  ἐν  τῳ  λόγῳ  τῷ  ἐμῷ ,  

 メイネーテ       エン   トー   ロゴー     トー   エモー 、

 

 これは “私のことばに留まる” と訳されているが、τῳ  λόγῳ  τῷ  ἐμῷ と“ことば”と“私”が並べて表記されているので、“私に留まる”+“ことばに留まる”で、“私とことばに留まる” の方が、よりギリシア語の表現に近いように思われる。

 

 “私のことば”なら τῷ  λόγῳ  έμοῦ の方がしっくり来る。

 また 人称代名詞のἐμῷ に定冠詞がつくのは、与格をとる前置詞 ἐκ がこの言葉にもかかっているからだ。

 

 “私のことば” なら、“私の話した言葉”の 意味になるが、“私とことば”なら、私とは別にことば(ロゴス)というものがあるような印象を受ける。

 また、イエスが発した言葉なら、ギリシア語で “言葉” という意味の “ῥῆμα(レーマ)” を使うと思う。

 λόγος(ロゴス)は、単純に日本語の言葉と訳せる言葉ではなく、考えれば考えるほどよく分からない(λόγῳ はλόγοςの与格)。

 

 

2)δοῦλος(ドゥーロス)は奴隷というより“しもべ(従う人)”に近い言葉(34節より)

 

 日本語の奴隷というと、鎖でつながれ自由を奪われた人をイメージするが、ギリシア語のδοῦλοςは自らの意志で仕える奉仕者のような意味。

 この箇所では奴隷と訳されているが、たいていの箇所は “しもべ” と訳されている。

 つまり、ここで言う奴隷は、他者が無理やり言うことを聞かせる奴隷ではなく、自分の意志で従うことで自らを縛っている使用人(サラリーマン)のような感じ。

 ギリシア語で読み解くと、後の文章もしっくりくる。

 

 “罪を犯す人は罪の奴隷”と言っているのは、“他人から強要され罪を犯している”という意味ではないく、“自分の意志で罪に奉仕しているため罪を犯している”となる。

 真理を知ることで、そのサイクルから解放される。それをイエスは自由と呼んでいる。

 

 国会図書館の標語だけ見ても、“真理を知ると、何をどう自由になるか?” 分からない。

 イエスを信じたユダヤ人にしても、「俺たちは誰に奉仕させられているわけでもなく、自由意志で生きている」と反論している。

 それに対しイエスは「あなたたちは無知なため、自分の意志で、罪を犯す人生にとらわれ、息苦しい思いをしているのですよ」と指摘している。

※この箇所の英訳(キング・ジェームズ版)はservant(使用人)であり、slave(奴隷)ではない。

 

 

3)35節と36節の意味が分からない

 

 さりげなく読んでいた箇所だが、改めて見ると、言っていることの意味が分からない。

 

 奴隷(罪の人)はいつまでも家にいない。子はいつまでもいる。

 いつまでも家にいる子が解放すれば、本当の自由を得られる。

 

 その人がいつまでも家にいようがいまいが、他人を自由にする権威に違いはないと思う。

 でも「いつまでもいる子が解放するから、本当の自由が得られるのだ」と言い切っているところの意味が分からない。

 

 英訳(キング・ジェームズ版)を見るとこうなっている。

 35. And  the servant  abideth  not  in  the  house  for  ever :  but  Son  abideth  ever .

 36. If  the  Son  therefore  shall  make  you  free ,  ye  shall  be  free  indeed .

 

 よって34節のδοῦλος(ドゥーロス)と35節36節のδοῦλοςは違うものと考える。

 34節までのδοῦλοςは、イエスを信じたユダヤ人(罪のしもべ)のことを指しており、35節、36節のδοῦλοςは、“神の家にいる奉仕者”のことを言っている。

 

 そう考えると、34節までで「真理は人を自由にする」項目は終わっていて、35節からはイエスの権威について話していることとなる。

 たとえ神の家に奉仕する人であっても、イエス以外の人は奉仕者であり、いつまでも人を自由にさせておく権威を持っていない。

 なぜなら彼らはしもべであり、いつまでも神の家にいるわけではないから。

 イエスは子でありいつまでも神の家にいる。そのため人をいつまでも自由にさせておく権威を持っている。

 

 ギリシア語のδὲは、日本語では“さて”または”しかし”と訳される後置詞(文頭には置けない単語)だが、“さて”と訳せば話題を変えることになり、“しかし”と訳せば前の文を受けての逆接となる。

 訳文では、”さて” なら前の文の文頭に置かれ、“しかし” なら前の文を受けての逆接なので後ろの文(子はいつまでも住む)の頭にくる。

 英語でもδὲはbutと訳され、子の前に来ている。でも私は前の文の頭に来る “さて” の方がしっくりくる。

 

 

 <感想>

 イエスを信じたユダヤ人たちは、自分達が真理から離れ、それにより不幸のサイクルのとりこになっていることに気づいていない。

 今の日本人も、誰の奴隷にもなっていないと思っているが、まわりを見回せば、奴隷のように人生を消耗している人ばかり。結局、我々も真理から離れてしまったため、自ら奴隷の状態に自分を置いているのかもしれない。

 “真理を知れば、自由になれる”

 イエスにつき従い、彼の言葉を信じた時、人は本当に真理を知り不幸のサイクルから自由になれる。

 私自身も、世の中のさまざまなしがらみにとらわれ、いまだ奴隷の状態なのだろう。

 また、真理が人を自由にするのは、キリスト教だけの話ではない。

 正しい知識を持つものが自由を手にし、自由が幸福をもたらす。

 

 

国立図書館ギリシア語の標語 (東京都千代田区